プロデューサー/リミキサーとして幅広いアーティストへの楽曲提供、そしてDJ、ラジオ番組、映画/ドラマへの楽曲提供など、精力的な活動が止まるところを知らない野崎さんですが、もともと音楽を目指そうということになったルーツを教えていただけますか?
<野崎良太:以下N>中3の終わり頃に、たまたまテレビの天気予報で彫刻の森美術館の映像が流れたピアノの曲がジョージ・ウィンストンの『あこがれ』で、こんなピアノを弾いてみたいと思ったのが自主的に音楽をやりたいと感じた最初のきっかけですね。高校に入ってからはクラシックを習うかたわらに坂本龍一さんの音楽を聴き、ヴァイオリニストの葉加瀬太郎さんのバンド「クライズラー&カンパニー」の曲なんかでシンセサイザーに興味を持って。で、学校ではダンスミュージックをガンガン聴いてましたね。それこそもう、C+Cとか(笑)。
C+Cミュージックファクトリーですか(笑)
<N>その時代です(笑)。そういうのから入り、周りにDJやり始めるやつもでてきて、オリジナルを作ろう、という話になってダンスビートを作り始めたんです。まだハウス/テクノ/ヒップホップ等の感覚はなかったですけどね。
<村田大造:以下M>その頃はどんな機材を使っていたの?
<N>01W/FDというKORGのシンセサイザー1台ですね。
<M>あ。なるほど、中のシーケンサーを使ってね。あれはちょうど当時の名機と呼ばれたやつだよね。
<N>そうですね、あれはいまだに使います。
そうしてダンスミュージックを作って行くことになったんですか?
<N>いや、高校1年生で一気に新しい情報が入ってきたときに、自分の中ではもっとちゃんと音楽を作りたいという思いが出てきて作曲を習いに行くんです。いわゆるアカデミックな作曲とピアノの勉強を、高校3年間の毎週日曜日、先生2人がかりで徹底的に教わるということを始めたんです。そこで僕のことをスパルタで教えてくれたのが、現代音楽でも非常に有名な方で、「あなたがやりたいような音楽だったらウチに来なさいよ」と勧められたのがきっかけで日芸大にいきました。この頃はクラブイベントにもよく遊びに行ってましたね。
<M>どの辺に遊びに行ってたの?
<N>新宿にACID TOKYOというクラブがあって…
<M>ん…。あ、あったね!
<N>(笑)ありましたよね。アルタの前通り過ぎて東口の怪しい人たちの間を抜けて遊びに行ってました。で、あるとき西麻布のYELLOWの近くにあったハコで友人がハウスのパーティーを始めて、それで六本木や西麻布に出るようになって、近くのYELLOWに行ってみて衝撃を受けて僕のクラブ観というのが変わりましたね。
<M>YELLOWは何の日に行ってたの?
<N>それこそ、今有名になっているラッパーの方々が大勢でライブやっている時でしたね。それに行って衝撃を受けました。こんなものがあるのか、と。
<M>それ、RICO(現・DEF JAM社長)とかがラッパー集めてイベントやってた頃じゃないかな。YELLOWがまだできて間もない頃の話だよね。
DJをやることになったのもその頃ですか?
<N>DJの方は、実は遊んでいる中の先輩が池袋でクラブをオープンする時に、何かイベントやれよ、と言われてテクノのイベントをやったのが始まりなんですよ。 |